
後白河法皇(西田敏行)を上手に操作して、源義経(菅田将暉)を討つ命令を出させるよう工夫をした源頼朝(大泉洋)。
平家討伐の一番の功労者だった義経ですが、こういう経緯で命を狙われるようになってしまったのです。
兄頼朝と弟義経の、骨肉の争いが繰り広げられるようになったのですね。
果たして、義経は鎌倉に帰ってこれたのでしょうか?
さっそく振り返ってみましょう!
ドラマ『鎌倉殿の13人』第20話のネタバレと感想!
頼朝は、鎌倉を中心として、少しずつ周囲の抵抗勢力を退けて行きました。
まずは、西の平家一族を追い払って安定を確保しました。
関東の北の上総広常(佐藤浩市)を消し去り、甲斐の武田信義(八嶋智人)らも牽制していました。
その次に、頼朝が気にしたのは奥州・奥州平泉の藤原一族だったのですね。
藤原氏は、特産品の砂金や馬などを北方貿易にて財政基盤を盤石なものにし、勢力を作っていました。
平清盛(松平健)は、日宋貿易にて砂金を目玉商品として稼いでいましたが、近い手法にて財を蓄えていました。
↓藤原秀衡の怪しい魅力を田村泯が好演!
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藤原秀衡(田中泯)は陸奥の国(現在の福島・宮城・岩手・青森)の支配者であり、後白河法皇は秀衡を高く評価し、鎮守府将軍に任命したのです。
後日、保護していた義経を鎌倉方に送り出したのは、後白河法皇救援の意味合いもあったのですね。
要するに、藤原秀衡と後白河法皇は、かなり太いパイプでつながっていたということではないかと思います。
関西をベースとして勢力を広げてきていた平家は、みちのくには関心が薄かったのに対し、頼朝は秀衡を徐々に脅威と感じ始めていたのです。
その秀衡の元に、天才的な軍略家である義経が加わるとなれば、頼朝は義経を許すわけには行かない、ということになったのでした。[ad4]
奥州に逃れた義経の運命が狂い始める
頼朝らから、命からがら逃れた義経ですが、育ての親と言っても過言ではない藤原秀衡がほどなく死去してしまいます。
秀衡は、義経を大将軍として一族がまとまるように遺言をして亡くなります。
↓秀衡がもう少し長生きできれば義経の運命も変わっていたかも?
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頼朝・義経兄弟の仲を取り持とうとする北条義時(小栗旬)は、義経保護を頼朝に願い出て、奥州平泉に出発します。
頼朝は、義経を生かして返すなと、義時に命じます。[ad5]
静御前の舞と言えば、名場面となるが
義経が逃亡に連れて行けないと判断して、実の妻の里(三浦透子)と愛人である静御前(石原静河)を別々に逃がして陸奥に向かいました。
しかし、静御前は捕らえられ、鎌倉に連れてゆかれます。
静御前は、義経の子を身ごもっていたのですが、自分から静御前と名乗り出て舞を舞います。
↓この回で一番の見せ場ですね!
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義時は、静御前を語る偽者として扱うため、下手に舞うようすすめます。
しかし、静御前は上手に舞ってしまい、生まれた男児は処分されてしまいました。
頼朝は、藤原一族が仲が悪いことに目を付け義経を謀略するように仕向けます。
義経は、戦をすれば平泉が戦場となることが分かっていたので、みずから討たれることを望みました。
義経の首は、頼朝のところに届けられたのでした。[ad6]
ドラマ『鎌倉殿の13人』第20話のネタバレと感想まとめ
第20話にタイトル『帰ってきた義経』とは、義経が生きて帰ってこなかったことだったのですね。
平泉を中心とした、鎌倉時代における兄弟親族の死闘の歴史があったのです。
芭蕉は、平泉に行った際『夏草や つわものどもが 夢の跡』と詠んだのはここだったのです。
義経がいなくなり、藤原氏とも友好関係が築けた鎌倉方はこの後、どうして行くのでしょうか?
何だか寂しい感じになりますが、次話も気になります。